ごふせん書評 - 5枚の付箋で1冊の本を語る -

気になった箇所を付箋でチェックしまくる本好きが、1冊につき5箇所のハイライトを厳選して本について語る。歴史、文化、旅、宗教、政治、哲学、教育が関心分野だけど、興味を惹くものは何でも読む雑食。

書評:サッカーが世界を解明する(フランクリン フォア著)

●読んだ本

サッカーが世界を解明する(フランクリン フォア著)

 

●この本を読んだきっかけ

2018サッカーW杯以降、サッカー熱が再燃したため。世界中を巻き込むサッカー熱の背景を知りたかったため。

 

●本の概要(Amazonの紹介ページから抜粋)

著者はワシントン在住のサッカー狂で、『ニュー・リパブリック』の政治記者。「グローバル化」の波が世界中を席巻する21世紀、「サッカー」とは何より固有の歴史・文化・民族・宗教的な《表象》であり、「反グローバル化」の力も同じくらい強固に働いているのではないか、と考える。そこで、休暇を取り、ベオグラードグラスゴー、リオ、ミラノ、バルセロナ~~、テヘランなど世界中を駆けめぐり、取材したのが本書だ。
 サッカーにまつわる反ユダヤ主義、民族紛争、金権体質、権力抗争、宗教対立といった、重く、根深い問題が次々に明かされる。熱狂的なサポーター、極悪フーリガン、クラブの幹部・関係者、有名選手などから直接取材しつつ、文献などの目配りも怠りない。

 

 ■全体の感想

「世界中を熱狂させるサッカー、しかしその文化的作用が、国によってここまで異なるとは、、、!」

 サッカーW杯は4年に1度開催され、その注目度は同じ頻度で開催される夏のオリンピックに勝るとも劣らない。一体、古代ギリシアまで起源をさかのぼる、格式あるオリンピックに、まだ第一回大会から100年弱しか経っていないサッカーの1大会が肩を並べることができたのはなぜだろうか。

 ボールと広場さえあれば楽しめるという手軽さ、単純だが奥深いルールに裏打ちされた高い競技性など、サッカーが世界に広まった理由を挙げることはそう難しくない。しかし、やはりサッカーをサッカーたらしめているのは、その文化的作用なのである。各国の国旗を熱心に振り、ナショナリズムに飲み込まれるワールドカップ期間中の雰囲気は尋常ではない。そして舞台をミクロに、国の中に移せば、都市間で、宗教間で、時に政治観の違いから隣人同士がサッカーボールとプレイヤー(時にはレフェリーまでも)を代弁者に立てた文化闘争を繰り広げている。

 サッカーは戦争と同じで、基本的には強いものが勝つ。選手個々の運動能力のみでなく、意志の強さが多分に結果に影響を与えることまで同じだ。ナポレオン軍の愛国心クロムウェル鉄騎隊の信仰心がいかに敵を圧倒したか、歴史を見れば明らかだ。サッカーのサポーター達は、自分たちの影響力を信じるからこそ、代弁者たるプレイヤーにエールを送る。時には歓声で、特には暴力で。

 本書は、文化とサッカーの相互作用について、実際に筆者が各国を訪れながら、関係者、選手、サポーターへのインタビューを通じて明らかにしていくものだ。国により、都市により異なるサッカーの文化的作用の多様さに驚きを隠せない。

 読後には、本書で取り上げられていない日本サッカーの文化的作用に思いを馳せてみた。僕自身、幸い青春時代を過ごした地元にクラブチームがあったことから、一時期はJリーグ観戦に熱をあげ、毎週のようにスタジアムを訪れていたこともあった。しかしはっきり言って、日本においてサッカーが文化的に根付いたとはとても言えない状況である。何かが足りない、空虚なサッカー熱。日本全体がサッカーで盛り上がるのは、4年に一度、ナショナリズムの高揚によってのみ。女子サッカーに至っては、ワールドカップ優勝という、とてつもない瞬間最大風速を記録しただけに、その後の注目度の低さがより一層寂しく映る。

 一体、日本サッカーを未来を託された上層部は、どのように考えているのだろうか。多少の親心と単純な好奇心からJリーグのホームページを覗いてみると、そこには「Jリーグ百年構想」というスローガンが。確かに聞いたことのある言葉だが、一体最終的には何を目指しているのか。この構想には副題が以下のように続く「~スポーツでもっと幸せな国へ。~」ここまで読んだ時、僕は初めて納得し、そしてJリーグの未来に少し安堵した。

 はっきり言って、Jリーグが欧州サッカーの様に熱狂的で、戦闘的、フーリガンのような暴力的サポーターまで生み出す狂騒的文化性を獲得することはないだろう。そもそも、世界の中で相対的に見れば、日本は国内において文化闘争なるものがほとんどない、モノカルチャー国である(もちろんゼロではない。在日韓国人問題、沖縄基地問題アイヌ問題など挙げれば枚挙に暇がないことは理解しているが、あくまで相対的に、である)。

 そのような歴史・文化を背景に、サッカーが担える役割は何だろうか。もしかするとJリーグ関係者は議論の末、その構想にあるように、「人々を幸せにする」という結論に至ったのではないだろうか。文化面ではなく、そのスポーツとしての競技性に頼り発展していくリーグ。情熱的な他国のサッカーを知ると少し寂しくもあるが、日本にはこれしかないのかもしれない。

 だからこそ、もしもJリーグが異常な熱狂性を帯びた時には、日本の中で何かが起きているサインと言えるかもしれない。例えば、沖縄のクラブチームがJ1で優勝争いし、基地問題と繋がり、沖縄県民の興奮が異常に高まる。横断幕には「沖縄独立」。そんな未来もあり得なくはない。この本は、そんな新たなサッカー観を教えてくれた、興味深い一冊である。

 今回の5枚の付箋は、5つ国の、サッカーによる異なる文化的作用を紹介したい。

 

■1枚目の付箋

グラスゴースコットランド)「サッカーで戦う」

プロテスタントたちが勝利を祝うとなると、チーム(注:レンジャーズのこと)のキャプテンであり長髪で80年代の男性モデルといった風貌のイタリア人、ロレンツォ・アモルーゾが腕を振り回し、反カトリックの歌をもっと大きな歌で歌えと煽る。皮肉な話だ。アモルーゾはカトリック教徒だ。それどころか、レンジャーズの選手は大半がカトリック教徒である。

 16世紀の宗教改革プロテスタント化したグラスゴーを本拠地とするレンジャーズと、同じ街を拠点としつつもジャガイモ飢饉を機に海を渡ってきたアイリッシュカトリックのために19世紀に作られたセルティックという構図。しかし元々、レンジャーズはプロテスタント的信念を持って生まれたチームではない(知らなかった、、、)。社会がサッカーを宗教対立の媒体として期待し、チームと選手はそれに応え続けてきた。

 いまやグローバル化の波がサッカー選手の移籍にも波及し、勝利のために宗派を無視した選手獲得がなされているにも関わらず、プレイヤー達はいまだにその役割を降りることが許されない。

 

■2枚目の付箋

アムステルダム(オランダ)「サッカーで過去を変える」

しかしオランダ人は抵抗の歴史を発見する以上に、捏造していた。最近になって歴史家たちがしつこいぐらいに指摘している通り、オランダ人はナチスを阻むよりはむしろ積極的に協力していたのだ。オランダほどホロコーストユダヤ人を失った国は他にない。世界主義的で自由なアムステルダムでは、アヤックスのようにユダヤ人であることを標榜することは、自己改革を行って罪の意識を軽減するという目的に合致するのである。

 僕が持っていた、いや、憧れていたと言ってもよいアムステルダムの自由な空気。アンネ・フランクナチスから匿い続けた、イデオロギーより人権を守ろうとする高潔さ。さらにオランダは、国際法という概念を生み出したフェアネスの国。

 しかしどうやら、その歴史観の中には多少なりとも意図的に書き換えられたものもあるらしい。アヤックスはスタジアムにイスラエルの旗を掲げるほどにユダヤ主義をアピールしており、その背景には「世界主義的」アムステルダムのイメージを保持するという意図があるとのこと。その策略が本当だとしたら、少なくとも僕にとっては大いに効果があったと言える。

 

■3枚目の付箋

バルセロナ(スペイン)「サッカーで支持者を増やす」

カタルーニャ主義の考え方では、市民権は持って生まれたものではなく獲得するものなので、外国人でもカタルーニャ人になることができる。カタルーニャ語を覚えて、カスティーリャを軽蔑し、バルセロナを愛すればいいのだ。

 サッカークラブとしてのバルセロナの特徴は、開放感を持った世界主義と、カタルーニャへの強烈な愛という、一見相反しそうなものの両立。市民ソシオのクラブ運営への深い関与、他のチームであればすぐにでも飛びつく様な高額なスポンサー契約オファーがあっても、クラブへの理念に沿っていなければ認められない(そもそも何年か前まではユニフォームの胸に企業名自体いれていなかった!)。

 そんなユニークなバルセロナの特徴は、カタルーニャ主義と大いに関連しているということが分かる箇所だ。ブルガリア人のストイチコフが何故カタルーニャで愛されるのかがよく分かる。

 

■4枚目の付箋

イラン「サッカーで自由を獲得する」

この両チームは現代サッカーにおいては強豪国などではない。しかしそれはまた別の問題なのだ。イラン国民がこうまで国際試合を観たがるのは、サッカーこそが資本主義的で非イスラム的で高度な西欧と自分たちを結びつけてくれるものだからだ。

 現代サッカーを一言で表せば、それはグローバリゼーションの体現、と言えるだろう。イスラム圏では、国ごとに状況は異なるとはいえ、イランが欧米と対立することが多いのは周知の通り。

 一方で実はイラン市民はコカコーラを愛飲したり、西の文化への憧れを持っていることも事実なのである。敵対心と憧れのジレンマが、イラン人をサッカーへの熱狂に駆り立てる。

 この章の冒頭では、女性の入場が禁止された、イラン代表チームの優勝セレモニー会場に三千名の女性が詰めかけ抗議したことが述べられている。彼女達が見たかったのは、選手の笑顔か、それとも「自由」の獲得なのか。

 

■5枚目の付箋

アメリカ「サッカーを恐れる」

彼はサッカーに熱を上げている人たちが、アメリカが「他の国のやり方に合わせる」ことを期待するのではないかと危惧しているのである。(中略)反サッカーの圧力団体はグローバリゼーションに対して病的なまでの嫌悪感を表明している。

 超大国アメリカの深層心理が見える記述である。アメリカは時に独自路線を貫こうとする。歴史を辿れば国際連盟を提唱しつつ加入しなかったり、そもそも未だにヤード・ポンド法を使用していたり(理系の研究者は世界的スタンダードのメートル法も覚えなければならず大変らしい)、ユニークであることを好む。

 その傾向はどうやらスポーツでも同じらしい。ベースボールが既にあるアメリカは、サッカーが欧州から持ち込まれても、頑なに拒否しつづけてきた。その理由の多くは「サッカーは女々しいものだ」「アメリカには野球があるじゃないか」など、心理面での拒絶反応である。いち早くサッカーという競技自体の面白さや、教育面での効果(アメフトに比べ安全であったり、チーム作業の学習)に気づいたアメリカ人はいわゆる「意識高い系」のような扱いを受けてきたらしい。

 サッカーがますます世界中で存在感を増す中、アメリカはどう反応するのか非常に興味深い。幸運にも僕は、昨年何ヶ月かアメリカに滞在し、その間にサッカーアメリカ代表は、2018年のワールドカップ本戦出場を逃した。そのニュースは新聞で一時的に扱われただけで、メディア上での騒ぎはすぐに収束した。「サッカーなんて、たとえW杯といえども関心の的ではない。それよりドナルド・トランプの発言について議論すべきだ」とでもいうように。

 しかし面白いのは、その後長きにわたり、会話の中では予選敗退の話題が幾度も上がったことだ。アメリカは一匹狼を装いつつも、やはりサッカーの存在感は無視できないというジレンマを示唆しているかのようで、とても興味深い体験だった。