ごふせん書評 - 5枚の付箋で1冊の本を語る -

気になった箇所を付箋でチェックしまくる本好きが、1冊につき5箇所のハイライトを厳選して本について語る。歴史、文化、旅、宗教、政治、哲学、教育が関心分野だけど、興味を惹くものは何でも読む雑食。

書評:暇と退屈の倫理学(國分功一郎著)

■読んだ本
暇と退屈の倫理学國分功一郎著)

 

■この本を読んだきっかけ
平日は慌ただしく働き、土日の自由を、何もしなくて良い時間を待ち望んでいるのに、いざ休みになると「暇だ、退屈だ。」と思い始め、何かに追われるようにレジャーを楽しもうと必死になる。そんな時偶然にもこの本を見つけ、思わず手に取った。

 

■本の概要(Amazonの紹介ページから抜粋)

何をしてもいいのに、何もすることがない。だから、没頭したい、打ち込みたい……。でも、ほんとうに大切なのは、自分らしく、自分だけの生き方のルールを見つけること。

[序章「好きなこと」とは何か?より抜粋]
資本主義の全面展開によって、少なくとも先進国の人々は裕福になった。そして暇を得た。だが、暇を得た人々は、その
暇をどう使ってよいのか分からない。[…] 我々は暇のなかでいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきか。

序章 「好きなこと」とは何か?
第一章 暇と退屈の原理論──ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?
第二章 暇と退屈の系譜学──人間はいつから退屈しているのか?
第三章 暇と退屈の経済史──なぜ“ひまじん"が尊敬されてきたのか?
第四章 暇と退屈の疎外論──贅沢とは何か?
第五章 暇と退屈の哲学──そもそも退屈とは何か?
第六章 暇と退屈の人間学──トカゲの世界をのぞくことは可能か?
第七章 暇と退屈の倫理学──決断することは人間の証しか?
付録 傷と運命──『暇と退屈の倫理学』新版によせて

 

●全体の感想
「休みになりゃ暇だし仕事は暇なし」
 これはB’zのBigという歌詞の一節だ。普段は激しいロックで感情を表現している彼らだが、このアルバム曲ではアコースティックギターに美しいメロディを乗せて、少し感傷的になった男の内面を描く。「休みになりゃ暇だし仕事は暇なし」。中学生の時に聞いていたこの一節が、最近何故か頭の中でリフレインする。
 韻を踏みつつ、現代人が抱える悩みを軽快に描いたこの箇所に、僕はうんうんと頷きながら共感する。「まさに今の僕の状態だ」。平日は常に脳みそフル回転。早く仕事が終わらないかと願い続ける。しかしそのような怒涛の五日間が終わり土日を迎えるとふと思う。あれ、暇だな。
 きっと、この感情を理解してくれる現代人は結構な数に上ると思う。しかし、少し考えてみると、何かがおかしいことに気付く。休みとは本来暇を楽しむべきものだし、頑張って(僕の場合は何度かの転職までして)手に入れた仕事が忙しいのは、喜ぶべき状態なのではないか?僕は、望むべくして手に入れたはずのライフスタイルに、不満を持っていること、つまり、自分の欲望と行動の矛盾を自覚してしまった。
 では、歌詞の内容を逆にしてみたらどうだろうか。「仕事は暇だし休みは暇なし」。もちろん人により考え方の違いはあるだろうが、はっきり言って僕にはこちらの方が魅力的だ。
 以下に記述する2枚目の付箋箇所でも述べるが、現代では仕事も余暇も、全てが消費の対象になってしまったのだ。仕事のやりがい、社会貢献、充実した友達との時間、家族との時間、そのようなパッケージ化された「自分の理想像」を追い求めて消費を繰り返すのが現代社会なのだ。
 きっとこの本を読んだ前後では、僕のライフスタイルはそう変わらないだろう。平日は朝から夜まで暇なし。休みの日は暇で、買い物や映画などのありきたりな行動で時間を潰す。時には友達でも呼んでホームパーティでもするかもしれない。
 この本を読んで変わるのは、意識である。結局この世の中で行われている事の多くは「気晴らし」であると筆者は述べる。その内容が高尚であれ低俗であれ、その中でいかにして愛でるべき何かを見出し、自分なりの楽しみ方ができるのかが重要だ。消費に終わりはないのだから。
 少し話は逸れるが、この本のおかげで、最近落合陽一さんや堀江貴文さんが盛んに説いている「モチベーション」の重要性が理解できた気がする。スマホゲームも、音楽鑑賞も、化学の基礎研究も、ベンチャー企業を起こすのも、突き詰めていけば結局のところ、「退屈」から逃れるための「気晴らし」である。あのパスカルまでもが自分の研究について同じように言及していることが本書では述べられる。
 では、その中から何を選び、どの程度自分の人生を賭けるべきなのか。それを決めるのは「モチベーション」である。僕らは誰かがノーベル賞を取るぐらいに、つまり世界の誰よりも気晴らしに熱中してくれたお陰で、最新の医学治療を享受している。誰かが気晴らしである執筆に全力で取り組んでくれたお陰で、素晴らしい文学に涙する。そしてパスカルが自虐風に語った気晴らしが、人間の複雑な心理構造を簡潔な言葉で解明してくれたから、僕はこの本を読めた。
 結局、人類の社会をより良くしたいと少しでも願う気持ちがあるのなら、時たま襲ってくる「退屈」の声に抗いながら、必死に気晴らしにのめり込むしかないのだ。


■一枚目の付箋

 何かに打ち込みたい。自分の命を賭けてまでも達成したいと思える重大な使命に身を投じたい。なのに、そんな使命はどこにも見あたらない。だから、大義のためなら、命をささげることすら惜しまない者たちがうらやましい。
 だれもそのことを認めはしない。しかし心の底でそのような気持ちに気づいている。
 筆者の知る限りでは、この衝撃的な指摘をまともに受け止めた論者はいない。

 心のどこかで退屈を感じている自分という存在への気付きと、退屈を脱した(ように見える)他人への羨望、が述べられた箇所である。
 何に生涯を捧げるかは人それぞれだ。宗教、仕事、創作、なんでもよい。例え社会的に見れば大した意味のないようなもの、時にはそれが反社会的なものであっても。少なくとも彼らは、人生に退屈してはいない。それが何よりも羨ましいのだ。退屈は、つまり、人生を幸せで有意義にするかどうかを決定づける大きな要因なのである。

 

■二枚目の付箋

 現在では労働までもが消費の対象になっている。どういうことかと言うと、労働はいまや、忙しさという価値を消費する行為になっているというのだ。〔…〕彼らが労働するのは、「生き甲斐」という観念を消費するためなのだ。
 ここからさらに興味深い事態が現れる。労働が消費されるようになると、今度は労働外の時間、つまり余暇も消費の対象対象となる。〔…〕「自分は生産的労働に拘束されてなんかないぞ」。「余暇を自由にできるのだぞ」。そういった証拠を提示することをだれもが催促されている。

  仕事が充実していて忙しい。土日にもやるべき事があって忙しい。仕事のやりがいを追及すること。読書を続けて教養を深めること。新しいカフェやレストランを開拓すること。僕らは年中無休で「人生の充実」を追い求め、他人と競争する。一見するとそれは、前向きな活動のように見えるが、実のところ「退屈」という恐ろしい敵から逃げようとしているだけなのではないだろうか。
 本来、余暇には何もする必要はなく、心身を休めていればよかったはずなのに、今ではたった1日でも外に出ないだけで他人に置いていかれてしまったような。他人より退屈で、みじめな人生を送っているかのように感じてしまう。休みの日にも心休まらない理由が、この箇所を読むことで理解できた気がする。

 

■三枚目の付箋

 私たちの生活がすべて気晴らしであるわけではないだろう。しかし、私たちの生活は気晴らしに満ちている。
 必要だと思ってやっていることさえ、もしかしたら気晴らしかもしれない。額に汗してあくせく働くことすら、絶対にそうではないとどうして言い切れるだろう。
 だれもがその気晴らしを退屈だと感じるわけではない。しかし時折その気晴らしは退屈と絡み合う。

 今や、純粋に100%生きるために、つまり活動を維持するための食糧と、凍え死なないための屋根をただ求めて生きる人間は少数となった。そもそも10,000年前の縄文時代においてさえ、土器に装飾を施すような余裕があったのだ。厳密にその活動は生活に必要か、そうでないかを区別すれば、きっと現代に生きる我々の行動の多くは、気晴らしと見なされることだろう。

 

■四枚目の付箋

 本当に恐ろしいのは、「なんとなく退屈だ」という声を聞き続けることなのである。私たちが日常の仕事の奴隷になるのは、「なんとなく退屈だ」という深い退屈から逃げるためだ。
 〔…〕故に人は仕事の奴隷になり、忙しくすることで、「なんとなく退屈」から逃げ去ろうとするのである。

 なにもする事のない、絶望的な「退屈」と、低いモチベーションで仕事に臨みながら感じる「退屈」。退屈にも種類があり、僕らは何よりも前者の退屈を何よりも恐れる。
 今やインターネットと、そこからの情報を四六時中手元で受け取れるスマートフォンのお陰で、僕らは今や全ての退屈を、後者に変換することに成功したのではないかと思う。ひきこもりという社会問題を見ていると、僕らは個室にこもり、前者の退屈を長い時間引き受けることはできないが、後者の退屈であれば、いくらでも時間を進められる可能性がある、ということを証明しているように思える。


■五枚目の付箋

 人間は習慣を作り出すことを強いられている。そうでなければ生きていけない。だが、習慣を作り出すとそのなかで退屈してしまう。

 人間はなんて我儘なのだろうか。常に新たな刺激を求めるくせに、常時刺激がある環境は避けるようにプログラミングされている。

 

 

 

書評:服従(ミシェル・ウエルベック著)

●読んだ本
服従ミシェル・ウエルベック著)

 

●この本を読んだきっかけ
佐藤優さんが著書(どの本だったか忘れた、、、)で紹介していたことから。2年前に一度英文で読もうと思い挫折。その後和文版を図書館で借りて読み始めた。

 

●本の概要(Amazonの紹介ページから抜粋)

2022年フランスにイスラーム政権誕生。
シャルリー・エブドのテロ当日に発売された、
世界を揺るがす衝撃のベストセラー、日本上陸。

 

●全体の感想
「これはディストピア小説ではない!」
 イスラム主義の政党がフランスの政権を取り、やがてヨーロッパを中心にその主義を浸透させていく。極めて簡潔に本書のあらすじを書くとこうなる。宗教理解の浅い僕ですら恐ろしいと感じる世界観。キリスト教国のフランス人は、どのような思いでこの本を目にしたのだろう。僕はまるで、この世の終わりかのような表情をした読後の自分を想像しながら、本を手に取り読み進めた。
 一部暴動などの記述はあるものの、この本に書かれたイスラム主義への移行は想像していたよりも平和的、かつ2022年という極めて近未来的な時代設定からも分かる様に、現実的だ。そもそもありえない、もしくはあるとしても限定的な可能性の未来を描くのであれば、100年先のことを書けば良いのだから、著者が意図的に現実の一つの可能性としてストーリーを提示していることは明らかだ。
 読後感は複雑なものだった。タイトルである「服従」が本書のテーマであり、この語は一般的には悪い意味「しか」持たないと思われている。しかし僕らは、主人公フランソワを通じ「服従」のイスラム的本質を知る。それは果たして絶望か、希望か、それとも諦観なのか、僕には判断が下せなかった。
 確固たる合意を得て人々に広く浸透していた世界観や宗教観が一瞬でひっくり返る。それは人類の歴史上何度も繰り返されてきたことだ。土着の宗教はキリスト主義をもちこまれ、神をすり替えられた。キリスト教の中ですら、カトリックプロテスタントではまるで別宗教の様相を呈す。社会主義が一瞬で終わることもあれば、植民地となれば翌日から母語を、文化的価値観を強制的に変えられることもある。そしてこれらは、この100年の間ですら何度も起きてきたことなのだ。
 全ての人間が同等の権利を持つという立場を前提とした民主主義は、決して絶対的ではなく、あくまで現時点の暫定的な最適解である。僕らは常にそのことを念頭に置きながら暮らすべきだろう。この小説はディストピア的ではない。予言というと大げさだから、予行練習とでも言うべきだろうか。
 きっと僕がフランソワの立場なら、、、ぜひ多くの人に読んでもらい、議論してみたいと思った。


■1枚目の付箋

ぼくの社会生活も、身体生活と同様、満足のいくものではなかったし、それは、洗面台が詰まるとか、インターネットが故障するとか、運転免許の減点を喰らったとか、正直ではない家政婦とか、確定申告書の書き間違いとかの小さな厄介事の連続から成り立っていて、ぼくをほっとさせてくれることは決してなかった。修道院では、そういった心配事のほとんどから逃れられるのだろうとぼくは想像した。個人生活の重荷を肩から下ろすのだ。

 修道院は宗教性の象徴であるが、主人公フランソワは決してそのようには捉えていない。個人生活の重荷を肩から下ろす場所として、であり、決して神に近づこうとしているわけではない。この箇所は、熱心なキリスト教徒でも無心論者でもないフランソワを通して、現在のヨーロッパにおける一般的な宗教観を表している。

 

■2枚目の付箋

彼を困らせるような質問をすることもできたのに、と僕は思った。たとえば、男女共学を廃止することや、教師はイスラーム教徒に限ることについてなどだ。しかし結局のところ、カトリック教徒の間ではすでにそうなっているはずだ、カトリック系の学校で教えるには、洗礼を受けている必要があるのではないだろうか。考えるにつれて、ぼくは、自分が何も知らないのだと気が付いた。

 現在当たり前だと思っていること、「フェア」だと思い一般的に受け入れられている諸制度が、じつはいわゆる自由民主主義と矛盾していることは多々あるのだ。結局のところ、現在の西側諸国はあくまで「キリスト教的」自由民主主義なのであって、非キリスト教圏にとっては価値観の押し付けとなることも多々あるのだ。イスラムの教えを非文化的で不平等だと一方的に攻め立てるのは、フェアではない。

 
■3枚目の付箋

二十世紀の知的な議論は、突き詰めれば、コミュニズムーつまり、人間中心主義の『ハード』なヴァージョンですーと自由民主主義ー人間中心主義のソフトタイプーの対立から成り立っていました。それはあまりにも単純に過ぎる議論ではないでしょうか。

 ここ100年の世界について、イスラムキリスト教で共通して中心として置かれるべき「神」の視点が抜け落ちていることに気づかされる場面。啓典宗教は、神のためのものでなかったか?

 

■4枚目の付箋

ノスタルジーは美的な感情とは何の関係も持たず、幸福な思い出と結びつかなくても、ぼくたちは自分が「生きた」その場所を懐かしく感じるのだ、そこで幸せだったかどうかは関係ない、過去は美しく、未来も同様なのだ。ただ現在だけが人を傷つけ、過去と未来、平和に満ちた幸福の無限の二つの時間に挟まれて、苦悩の腫れ物のように常に自分につきまとい、ぼくたちはそれと共に歩くのだった。

 とにかく美しく、かつ的確に過去・未来・現在の関係性を表した箇所だと思う。

 かつて自分が教鞭を執っていたが、政権交代に伴い退職を余儀なくされた大学。フランソワはそこにまた戻るチャンスを得る。ただしイスラームへの改宗、という条件のもとに。

 決断に悩むフランソワはキャンパスを散策し、大学の光景が「修道院を思わせた」と綴る。それは一枚目の付箋箇所から明らかなように、決してそこに神聖な何かを見たからでは無い。見つけたものは安寧と、煩雑な現実社会からの逃避である。


■5枚目の付箋

はっきりとさせておかなければならない。吐き気を催すような解体がここまで進んでしまった西欧の社会は、自分で自分を救う状態にはもうないのだ。古代ローマが五世紀に自らを救えなかったのと同じだ。

古代ローマに限らず歴史上を紐解けば、世界を手中に収めた大国や文化圏が、その極めて強大な政治力や軍事力を持っても崩壊していくケースがいくつも見られる。ありえない、はありえない、のである。つまり、この本で書かれていることは「ありえる」。

 

●今後読んでみたい本は
ミシェル・ウエルベックはこの本で初めて知ったが、非常に興味深いので今後も何冊か読んでみるつもり。

書評:サッカーが世界を解明する(フランクリン フォア著)

●読んだ本

サッカーが世界を解明する(フランクリン フォア著)

 

●この本を読んだきっかけ

2018サッカーW杯以降、サッカー熱が再燃したため。世界中を巻き込むサッカー熱の背景を知りたかったため。

 

●本の概要(Amazonの紹介ページから抜粋)

著者はワシントン在住のサッカー狂で、『ニュー・リパブリック』の政治記者。「グローバル化」の波が世界中を席巻する21世紀、「サッカー」とは何より固有の歴史・文化・民族・宗教的な《表象》であり、「反グローバル化」の力も同じくらい強固に働いているのではないか、と考える。そこで、休暇を取り、ベオグラードグラスゴー、リオ、ミラノ、バルセロナ~~、テヘランなど世界中を駆けめぐり、取材したのが本書だ。
 サッカーにまつわる反ユダヤ主義、民族紛争、金権体質、権力抗争、宗教対立といった、重く、根深い問題が次々に明かされる。熱狂的なサポーター、極悪フーリガン、クラブの幹部・関係者、有名選手などから直接取材しつつ、文献などの目配りも怠りない。

 

 ■全体の感想

「世界中を熱狂させるサッカー、しかしその文化的作用が、国によってここまで異なるとは、、、!」

 サッカーW杯は4年に1度開催され、その注目度は同じ頻度で開催される夏のオリンピックに勝るとも劣らない。一体、古代ギリシアまで起源をさかのぼる、格式あるオリンピックに、まだ第一回大会から100年弱しか経っていないサッカーの1大会が肩を並べることができたのはなぜだろうか。

 ボールと広場さえあれば楽しめるという手軽さ、単純だが奥深いルールに裏打ちされた高い競技性など、サッカーが世界に広まった理由を挙げることはそう難しくない。しかし、やはりサッカーをサッカーたらしめているのは、その文化的作用なのである。各国の国旗を熱心に振り、ナショナリズムに飲み込まれるワールドカップ期間中の雰囲気は尋常ではない。そして舞台をミクロに、国の中に移せば、都市間で、宗教間で、時に政治観の違いから隣人同士がサッカーボールとプレイヤー(時にはレフェリーまでも)を代弁者に立てた文化闘争を繰り広げている。

 サッカーは戦争と同じで、基本的には強いものが勝つ。選手個々の運動能力のみでなく、意志の強さが多分に結果に影響を与えることまで同じだ。ナポレオン軍の愛国心クロムウェル鉄騎隊の信仰心がいかに敵を圧倒したか、歴史を見れば明らかだ。サッカーのサポーター達は、自分たちの影響力を信じるからこそ、代弁者たるプレイヤーにエールを送る。時には歓声で、特には暴力で。

 本書は、文化とサッカーの相互作用について、実際に筆者が各国を訪れながら、関係者、選手、サポーターへのインタビューを通じて明らかにしていくものだ。国により、都市により異なるサッカーの文化的作用の多様さに驚きを隠せない。

 読後には、本書で取り上げられていない日本サッカーの文化的作用に思いを馳せてみた。僕自身、幸い青春時代を過ごした地元にクラブチームがあったことから、一時期はJリーグ観戦に熱をあげ、毎週のようにスタジアムを訪れていたこともあった。しかしはっきり言って、日本においてサッカーが文化的に根付いたとはとても言えない状況である。何かが足りない、空虚なサッカー熱。日本全体がサッカーで盛り上がるのは、4年に一度、ナショナリズムの高揚によってのみ。女子サッカーに至っては、ワールドカップ優勝という、とてつもない瞬間最大風速を記録しただけに、その後の注目度の低さがより一層寂しく映る。

 一体、日本サッカーを未来を託された上層部は、どのように考えているのだろうか。多少の親心と単純な好奇心からJリーグのホームページを覗いてみると、そこには「Jリーグ百年構想」というスローガンが。確かに聞いたことのある言葉だが、一体最終的には何を目指しているのか。この構想には副題が以下のように続く「~スポーツでもっと幸せな国へ。~」ここまで読んだ時、僕は初めて納得し、そしてJリーグの未来に少し安堵した。

 はっきり言って、Jリーグが欧州サッカーの様に熱狂的で、戦闘的、フーリガンのような暴力的サポーターまで生み出す狂騒的文化性を獲得することはないだろう。そもそも、世界の中で相対的に見れば、日本は国内において文化闘争なるものがほとんどない、モノカルチャー国である(もちろんゼロではない。在日韓国人問題、沖縄基地問題アイヌ問題など挙げれば枚挙に暇がないことは理解しているが、あくまで相対的に、である)。

 そのような歴史・文化を背景に、サッカーが担える役割は何だろうか。もしかするとJリーグ関係者は議論の末、その構想にあるように、「人々を幸せにする」という結論に至ったのではないだろうか。文化面ではなく、そのスポーツとしての競技性に頼り発展していくリーグ。情熱的な他国のサッカーを知ると少し寂しくもあるが、日本にはこれしかないのかもしれない。

 だからこそ、もしもJリーグが異常な熱狂性を帯びた時には、日本の中で何かが起きているサインと言えるかもしれない。例えば、沖縄のクラブチームがJ1で優勝争いし、基地問題と繋がり、沖縄県民の興奮が異常に高まる。横断幕には「沖縄独立」。そんな未来もあり得なくはない。この本は、そんな新たなサッカー観を教えてくれた、興味深い一冊である。

 今回の5枚の付箋は、5つ国の、サッカーによる異なる文化的作用を紹介したい。

 

■1枚目の付箋

グラスゴースコットランド)「サッカーで戦う」

プロテスタントたちが勝利を祝うとなると、チーム(注:レンジャーズのこと)のキャプテンであり長髪で80年代の男性モデルといった風貌のイタリア人、ロレンツォ・アモルーゾが腕を振り回し、反カトリックの歌をもっと大きな歌で歌えと煽る。皮肉な話だ。アモルーゾはカトリック教徒だ。それどころか、レンジャーズの選手は大半がカトリック教徒である。

 16世紀の宗教改革プロテスタント化したグラスゴーを本拠地とするレンジャーズと、同じ街を拠点としつつもジャガイモ飢饉を機に海を渡ってきたアイリッシュカトリックのために19世紀に作られたセルティックという構図。しかし元々、レンジャーズはプロテスタント的信念を持って生まれたチームではない(知らなかった、、、)。社会がサッカーを宗教対立の媒体として期待し、チームと選手はそれに応え続けてきた。

 いまやグローバル化の波がサッカー選手の移籍にも波及し、勝利のために宗派を無視した選手獲得がなされているにも関わらず、プレイヤー達はいまだにその役割を降りることが許されない。

 

■2枚目の付箋

アムステルダム(オランダ)「サッカーで過去を変える」

しかしオランダ人は抵抗の歴史を発見する以上に、捏造していた。最近になって歴史家たちがしつこいぐらいに指摘している通り、オランダ人はナチスを阻むよりはむしろ積極的に協力していたのだ。オランダほどホロコーストユダヤ人を失った国は他にない。世界主義的で自由なアムステルダムでは、アヤックスのようにユダヤ人であることを標榜することは、自己改革を行って罪の意識を軽減するという目的に合致するのである。

 僕が持っていた、いや、憧れていたと言ってもよいアムステルダムの自由な空気。アンネ・フランクナチスから匿い続けた、イデオロギーより人権を守ろうとする高潔さ。さらにオランダは、国際法という概念を生み出したフェアネスの国。

 しかしどうやら、その歴史観の中には多少なりとも意図的に書き換えられたものもあるらしい。アヤックスはスタジアムにイスラエルの旗を掲げるほどにユダヤ主義をアピールしており、その背景には「世界主義的」アムステルダムのイメージを保持するという意図があるとのこと。その策略が本当だとしたら、少なくとも僕にとっては大いに効果があったと言える。

 

■3枚目の付箋

バルセロナ(スペイン)「サッカーで支持者を増やす」

カタルーニャ主義の考え方では、市民権は持って生まれたものではなく獲得するものなので、外国人でもカタルーニャ人になることができる。カタルーニャ語を覚えて、カスティーリャを軽蔑し、バルセロナを愛すればいいのだ。

 サッカークラブとしてのバルセロナの特徴は、開放感を持った世界主義と、カタルーニャへの強烈な愛という、一見相反しそうなものの両立。市民ソシオのクラブ運営への深い関与、他のチームであればすぐにでも飛びつく様な高額なスポンサー契約オファーがあっても、クラブへの理念に沿っていなければ認められない(そもそも何年か前まではユニフォームの胸に企業名自体いれていなかった!)。

 そんなユニークなバルセロナの特徴は、カタルーニャ主義と大いに関連しているということが分かる箇所だ。ブルガリア人のストイチコフが何故カタルーニャで愛されるのかがよく分かる。

 

■4枚目の付箋

イラン「サッカーで自由を獲得する」

この両チームは現代サッカーにおいては強豪国などではない。しかしそれはまた別の問題なのだ。イラン国民がこうまで国際試合を観たがるのは、サッカーこそが資本主義的で非イスラム的で高度な西欧と自分たちを結びつけてくれるものだからだ。

 現代サッカーを一言で表せば、それはグローバリゼーションの体現、と言えるだろう。イスラム圏では、国ごとに状況は異なるとはいえ、イランが欧米と対立することが多いのは周知の通り。

 一方で実はイラン市民はコカコーラを愛飲したり、西の文化への憧れを持っていることも事実なのである。敵対心と憧れのジレンマが、イラン人をサッカーへの熱狂に駆り立てる。

 この章の冒頭では、女性の入場が禁止された、イラン代表チームの優勝セレモニー会場に三千名の女性が詰めかけ抗議したことが述べられている。彼女達が見たかったのは、選手の笑顔か、それとも「自由」の獲得なのか。

 

■5枚目の付箋

アメリカ「サッカーを恐れる」

彼はサッカーに熱を上げている人たちが、アメリカが「他の国のやり方に合わせる」ことを期待するのではないかと危惧しているのである。(中略)反サッカーの圧力団体はグローバリゼーションに対して病的なまでの嫌悪感を表明している。

 超大国アメリカの深層心理が見える記述である。アメリカは時に独自路線を貫こうとする。歴史を辿れば国際連盟を提唱しつつ加入しなかったり、そもそも未だにヤード・ポンド法を使用していたり(理系の研究者は世界的スタンダードのメートル法も覚えなければならず大変らしい)、ユニークであることを好む。

 その傾向はどうやらスポーツでも同じらしい。ベースボールが既にあるアメリカは、サッカーが欧州から持ち込まれても、頑なに拒否しつづけてきた。その理由の多くは「サッカーは女々しいものだ」「アメリカには野球があるじゃないか」など、心理面での拒絶反応である。いち早くサッカーという競技自体の面白さや、教育面での効果(アメフトに比べ安全であったり、チーム作業の学習)に気づいたアメリカ人はいわゆる「意識高い系」のような扱いを受けてきたらしい。

 サッカーがますます世界中で存在感を増す中、アメリカはどう反応するのか非常に興味深い。幸運にも僕は、昨年何ヶ月かアメリカに滞在し、その間にサッカーアメリカ代表は、2018年のワールドカップ本戦出場を逃した。そのニュースは新聞で一時的に扱われただけで、メディア上での騒ぎはすぐに収束した。「サッカーなんて、たとえW杯といえども関心の的ではない。それよりドナルド・トランプの発言について議論すべきだ」とでもいうように。

 しかし面白いのは、その後長きにわたり、会話の中では予選敗退の話題が幾度も上がったことだ。アメリカは一匹狼を装いつつも、やはりサッカーの存在感は無視できないというジレンマを示唆しているかのようで、とても興味深い体験だった。

書評:China 2049(マイケル・ピルズベリー著)

●読んだ本

China 2049(マイケル・ピルズベリー著)

 

●この本を読んだきっかけ

最近メディアを賑わしている米中貿易関税問題を契機に、米中関係の変遷が気になったため。

 

●本の概要(Amazonの紹介ページから抜粋)

本書はCIAのエクセプショナル・パフォーマンス賞を受賞したマイケル・ピルズベリーの経験に基づいて書かれたものだ。
パンダハガー(親中派)」のひとりだった著者が、中国の軍事戦略研究の第一人者となり、親中派と袂を分かち、世界の覇権を目指す中国の長期的戦略に警鐘を鳴らすようになるまでの驚くべき記録である。本書が明かす中国の真の姿は、孫子の教えを守って如才なく野心を隠し、アメリカのアキレス腱を射抜く最善の方法を探しつづける極めて聡明な仮想敵国だ。我々は早急に強い行動をとらなければならない。

 

●全体の感想

「東洋人がアメリカの文化を完全に理解できない様に、アメリカ人も中国人の思想を理解することはできない。そして理解した時には、もう手遅れだ」

 この本は、長年にわたり対中関係に友好的であった著者が、2010年代に入りようやく、中国が1949年から遂行してきた、中国一国を中心とした世界情勢を創出するための「100年マラソン」計画が、中国内一部の強硬派(タカ派)のみならず、共産党幹部全体でコンセンサスとして共有されており、現在に至って極めて現実的な未来となったことに警鐘を鳴らすものである。

 まず驚いたことは、米国の人々は思っていた以上に、東アジアの歴史と文化を理解できていないということ。どうやら米国は近年まで、中国は孔子儒家により形作られた伝統的な文化資産を近代化とともに完全に捨て去り、現在は共産党を中心とした「新たな」中国としての外交を推進している、と認識していたらしい。これは海を隔てた中国の隣国、日本に住む我々にとっては耳を疑う様な軽率なミスではないか。政体や統治方法が変われど、中国は中国。歴史の重みはそう簡単に、数度の政変だけで脱皮できるものでは無いと、日本人は肌感覚で理解している。強国は並び立つものではあり得ずに、どちらかが覇権を握るまで争いは続く。そんな中華思想易姓革命のDNAが彼らの血肉に刻まれていることは、習わずとも知っている。そんな基本的なことに、米国は「今更気づいた」のである。

 恐らくこれは、米国が若い、わずか250年弱の国家であることと無関係ではあるまい。きっと彼らは、例えそれが国家の中枢を担う優秀な研究者であろうとも、歴史の重みというものが本質的にわかっていない。恐らく数年前まで米国が描いていた、現実的かつ理想的だと考えていた近未来の世界図、つまり米国と中国が並立しつつ世界をリードし、民主主義に基づいた統治を行う、などは当然あり得ないのである。なぜなら米国が立ち向かうべき相手は、一つの王朝が世界の全てを掌握する、中華思想の伝統を継承した国なのだから。

 もう一つ米国の誤認を招いた要因について、米中の地政学的差異が挙げられないだろうか。中国は周りを陸地に囲まれ、これまでもロシア、モンゴル、さらには欧州各国との血みどろの争いを通し、王朝保存の戦いを経験してきた歴史がある(海を隔ててはいるが、当然第二次世界大戦の日本もその系譜に含まれる)。「四夷」「四面楚歌」「北虜南倭」など、絶え間なき敵国への警戒を喚起する故事には事欠かないのが中国である。他国を全面的に信頼し、協力的な統治に同意するなどということは有り得ない。一方アメリカは、太平洋と大西洋に守られた、巨大な島国と言える。もちろんアメリカ大陸は広く、争いもあったが、基本的には米国が棍棒を握り大陸を掌握してきた。その事実は、内戦である南北戦争が彼らにとって最も激しい戦いだったことからも証明できる。いかんせんアメリカは理想的すぎた。その高い理想がアメリカをアメリカたらしめてきたのも事実なのだが。

 現在のトランプ政権による、中国への強気のアプローチは、正解だ。だが、筆者も述べている様に、既に遅すぎたかもしれない。習近平は米国大統領を相手に「中国人は龍の子孫」と発言するなど、もはや「覇」への決意を隠そうとはしていない。

 中国の真意に米国が気付いたとは言え、これからも誤った対処を続ける可能性は高いだろう。彼らには、本質的に東アジアの思想が理解できていないのだから。その際、日本には米中間において、両者の立場を理解しつつ行動できるアドバンテージがある。両者の狭間で上手くアドバイザーとして立ち回ること、それが当面の間日本が採るべき戦略かもしれない。

 かなり前置きが長くなったが、本書における5つのハイライト箇所を紹介したい。中国の100年マラソン戦略についての記述を中心に。

 

■1枚目の付箋

アメリカ人は傲慢にも、すべての国はアメリカのようになりたがっている、と考えがちだ。

アメリカが中国の意図を汲み誤った最大の要因だと思う。自由と平等に基づく民主主義は、最も現実的かつ最良の政体であることに疑いはないが、そこには「現時点において」と注釈をつけることを忘れてはならない。何しろ冷戦が終わり、民主主義陣営が優勢になってから、まだ僅か30年程度しか経っていない。中国は、他国とは異なるロジックで動いている。

 

■2枚目の付箋

ソ連アメリカに対するライバル意識を利用して支援を引き出し、それがうまくいかなくなると今度は、アメリカに対ソ協力を申し出て味方につけた。これもまた兵法の戦略の一つだ。

■3枚目の付箋

1978年以降に書かれた中国の論文には、1950年代から60年代にかけての中国の指導者はソ連との関係における勢を読み間違えた、という主張が散見される。共産主義世界におけるリーダーとしての地位を奪おうとしていることをソ連に察知され、ソ連からのさらなる投資、貿易の機会、軍事技術、政治的支援を引き出せなくなったからだ。

中国は過去の失敗に学び、米国に対し自分たちを小さく見せ、支援を引き出し続けた。思えば確かに、中国が大国になりつつある、という認識は持ちつつも、その存在感は、人口13億人、世界2位のGDPの国家としては小さく見えていた。日本も中国に政府開発援助(ODA)をいまだに続けているが、もはや中国は支援されるべき対象ではない。

 

■4枚目の付箋

最も驚くべき事実は、(中国が)国力の評価基準に占める軍事力の割合が、10パーセント以下だったことだ。世界第二の軍事大国だったソ連の崩壊後、中国は評価システムの重点を、経済、対外投資、技術革新、天然資源所有へと移行させた。

中国が、いかに軍事力以外の強化に力点を置いているかが述べられている箇所。この戦略も成功しているように思われる。特に「技術革新」のうちIT面において、日本含む世界中の国がGAFA (Google, Apple, Facebook, Amazon)抜きでは日々の生活すら危うくなっている中、中国は、その目的に「検閲」が含まれている可能性があるにせよ、独自の検索システム、SNS、ソフトウェア開発を成功させ、今では一大技術大国となった。 

 

■5枚目の付箋

現代国際関係研究所の副所長、陸忠偉は、「アジアの外交の歴史において、強い中国と強い日本が共存したことはない」と指摘する。

この指摘は正しく、中国は現在進行形でこのことを意識しているに違いない。しかし日本はどうであろうか。中国が近い将来、少なくとも経済的には、他国の追随を許さない程の差をつけてトップに立つことが明らかであるにも関わらず、中国との平和的共存が実現すると、楽観視し過ぎてはいないだろうか。理想を持つことは良いことであるが、最悪のシナリオは、常に頭の片隅に置くべきだ。

 

●今後読んでみたい本は

三国志 横山光輝著 

 (小さい頃に読んでおけばよかったなあ。)

・八九六四 「天安門事件」は再び起きるか 安田 峰俊

・中国人の本音 安田 峰俊

 (現在進行形の中国を知るための、格好の手引きになりそう。)