ごふせん書評 - 5枚の付箋で1冊の本を語る -

気になった箇所を付箋でチェックしまくる本好きが、1冊につき5箇所のハイライトを厳選して本について語る。歴史、文化、旅、宗教、政治、哲学、教育が関心分野だけど、興味を惹くものは何でも読む雑食。

書評:服従(ミシェル・ウエルベック著)

●読んだ本
服従ミシェル・ウエルベック著)

 

●この本を読んだきっかけ
佐藤優さんが著書(どの本だったか忘れた、、、)で紹介していたことから。2年前に一度英文で読もうと思い挫折。その後和文版を図書館で借りて読み始めた。

 

●本の概要(Amazonの紹介ページから抜粋)

2022年フランスにイスラーム政権誕生。
シャルリー・エブドのテロ当日に発売された、
世界を揺るがす衝撃のベストセラー、日本上陸。

 

●全体の感想
「これはディストピア小説ではない!」
 イスラム主義の政党がフランスの政権を取り、やがてヨーロッパを中心にその主義を浸透させていく。極めて簡潔に本書のあらすじを書くとこうなる。宗教理解の浅い僕ですら恐ろしいと感じる世界観。キリスト教国のフランス人は、どのような思いでこの本を目にしたのだろう。僕はまるで、この世の終わりかのような表情をした読後の自分を想像しながら、本を手に取り読み進めた。
 一部暴動などの記述はあるものの、この本に書かれたイスラム主義への移行は想像していたよりも平和的、かつ2022年という極めて近未来的な時代設定からも分かる様に、現実的だ。そもそもありえない、もしくはあるとしても限定的な可能性の未来を描くのであれば、100年先のことを書けば良いのだから、著者が意図的に現実の一つの可能性としてストーリーを提示していることは明らかだ。
 読後感は複雑なものだった。タイトルである「服従」が本書のテーマであり、この語は一般的には悪い意味「しか」持たないと思われている。しかし僕らは、主人公フランソワを通じ「服従」のイスラム的本質を知る。それは果たして絶望か、希望か、それとも諦観なのか、僕には判断が下せなかった。
 確固たる合意を得て人々に広く浸透していた世界観や宗教観が一瞬でひっくり返る。それは人類の歴史上何度も繰り返されてきたことだ。土着の宗教はキリスト主義をもちこまれ、神をすり替えられた。キリスト教の中ですら、カトリックプロテスタントではまるで別宗教の様相を呈す。社会主義が一瞬で終わることもあれば、植民地となれば翌日から母語を、文化的価値観を強制的に変えられることもある。そしてこれらは、この100年の間ですら何度も起きてきたことなのだ。
 全ての人間が同等の権利を持つという立場を前提とした民主主義は、決して絶対的ではなく、あくまで現時点の暫定的な最適解である。僕らは常にそのことを念頭に置きながら暮らすべきだろう。この小説はディストピア的ではない。予言というと大げさだから、予行練習とでも言うべきだろうか。
 きっと僕がフランソワの立場なら、、、ぜひ多くの人に読んでもらい、議論してみたいと思った。


■1枚目の付箋

ぼくの社会生活も、身体生活と同様、満足のいくものではなかったし、それは、洗面台が詰まるとか、インターネットが故障するとか、運転免許の減点を喰らったとか、正直ではない家政婦とか、確定申告書の書き間違いとかの小さな厄介事の連続から成り立っていて、ぼくをほっとさせてくれることは決してなかった。修道院では、そういった心配事のほとんどから逃れられるのだろうとぼくは想像した。個人生活の重荷を肩から下ろすのだ。

 修道院は宗教性の象徴であるが、主人公フランソワは決してそのようには捉えていない。個人生活の重荷を肩から下ろす場所として、であり、決して神に近づこうとしているわけではない。この箇所は、熱心なキリスト教徒でも無心論者でもないフランソワを通して、現在のヨーロッパにおける一般的な宗教観を表している。

 

■2枚目の付箋

彼を困らせるような質問をすることもできたのに、と僕は思った。たとえば、男女共学を廃止することや、教師はイスラーム教徒に限ることについてなどだ。しかし結局のところ、カトリック教徒の間ではすでにそうなっているはずだ、カトリック系の学校で教えるには、洗礼を受けている必要があるのではないだろうか。考えるにつれて、ぼくは、自分が何も知らないのだと気が付いた。

 現在当たり前だと思っていること、「フェア」だと思い一般的に受け入れられている諸制度が、じつはいわゆる自由民主主義と矛盾していることは多々あるのだ。結局のところ、現在の西側諸国はあくまで「キリスト教的」自由民主主義なのであって、非キリスト教圏にとっては価値観の押し付けとなることも多々あるのだ。イスラムの教えを非文化的で不平等だと一方的に攻め立てるのは、フェアではない。

 
■3枚目の付箋

二十世紀の知的な議論は、突き詰めれば、コミュニズムーつまり、人間中心主義の『ハード』なヴァージョンですーと自由民主主義ー人間中心主義のソフトタイプーの対立から成り立っていました。それはあまりにも単純に過ぎる議論ではないでしょうか。

 ここ100年の世界について、イスラムキリスト教で共通して中心として置かれるべき「神」の視点が抜け落ちていることに気づかされる場面。啓典宗教は、神のためのものでなかったか?

 

■4枚目の付箋

ノスタルジーは美的な感情とは何の関係も持たず、幸福な思い出と結びつかなくても、ぼくたちは自分が「生きた」その場所を懐かしく感じるのだ、そこで幸せだったかどうかは関係ない、過去は美しく、未来も同様なのだ。ただ現在だけが人を傷つけ、過去と未来、平和に満ちた幸福の無限の二つの時間に挟まれて、苦悩の腫れ物のように常に自分につきまとい、ぼくたちはそれと共に歩くのだった。

 とにかく美しく、かつ的確に過去・未来・現在の関係性を表した箇所だと思う。

 かつて自分が教鞭を執っていたが、政権交代に伴い退職を余儀なくされた大学。フランソワはそこにまた戻るチャンスを得る。ただしイスラームへの改宗、という条件のもとに。

 決断に悩むフランソワはキャンパスを散策し、大学の光景が「修道院を思わせた」と綴る。それは一枚目の付箋箇所から明らかなように、決してそこに神聖な何かを見たからでは無い。見つけたものは安寧と、煩雑な現実社会からの逃避である。


■5枚目の付箋

はっきりとさせておかなければならない。吐き気を催すような解体がここまで進んでしまった西欧の社会は、自分で自分を救う状態にはもうないのだ。古代ローマが五世紀に自らを救えなかったのと同じだ。

古代ローマに限らず歴史上を紐解けば、世界を手中に収めた大国や文化圏が、その極めて強大な政治力や軍事力を持っても崩壊していくケースがいくつも見られる。ありえない、はありえない、のである。つまり、この本で書かれていることは「ありえる」。

 

●今後読んでみたい本は
ミシェル・ウエルベックはこの本で初めて知ったが、非常に興味深いので今後も何冊か読んでみるつもり。