ごふせん書評 - 5枚の付箋で1冊の本を語る -

気になった箇所を付箋でチェックしまくる本好きが、1冊につき5箇所のハイライトを厳選して本について語る。歴史、文化、旅、宗教、政治、哲学、教育が関心分野だけど、興味を惹くものは何でも読む雑食。

書評:暇と退屈の倫理学(國分功一郎著)

■読んだ本
暇と退屈の倫理学國分功一郎著)

 

■この本を読んだきっかけ
平日は慌ただしく働き、土日の自由を、何もしなくて良い時間を待ち望んでいるのに、いざ休みになると「暇だ、退屈だ。」と思い始め、何かに追われるようにレジャーを楽しもうと必死になる。そんな時偶然にもこの本を見つけ、思わず手に取った。

 

■本の概要(Amazonの紹介ページから抜粋)

何をしてもいいのに、何もすることがない。だから、没頭したい、打ち込みたい……。でも、ほんとうに大切なのは、自分らしく、自分だけの生き方のルールを見つけること。

[序章「好きなこと」とは何か?より抜粋]
資本主義の全面展開によって、少なくとも先進国の人々は裕福になった。そして暇を得た。だが、暇を得た人々は、その
暇をどう使ってよいのか分からない。[…] 我々は暇のなかでいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきか。

序章 「好きなこと」とは何か?
第一章 暇と退屈の原理論──ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?
第二章 暇と退屈の系譜学──人間はいつから退屈しているのか?
第三章 暇と退屈の経済史──なぜ“ひまじん"が尊敬されてきたのか?
第四章 暇と退屈の疎外論──贅沢とは何か?
第五章 暇と退屈の哲学──そもそも退屈とは何か?
第六章 暇と退屈の人間学──トカゲの世界をのぞくことは可能か?
第七章 暇と退屈の倫理学──決断することは人間の証しか?
付録 傷と運命──『暇と退屈の倫理学』新版によせて

 

●全体の感想
「休みになりゃ暇だし仕事は暇なし」
 これはB’zのBigという歌詞の一節だ。普段は激しいロックで感情を表現している彼らだが、このアルバム曲ではアコースティックギターに美しいメロディを乗せて、少し感傷的になった男の内面を描く。「休みになりゃ暇だし仕事は暇なし」。中学生の時に聞いていたこの一節が、最近何故か頭の中でリフレインする。
 韻を踏みつつ、現代人が抱える悩みを軽快に描いたこの箇所に、僕はうんうんと頷きながら共感する。「まさに今の僕の状態だ」。平日は常に脳みそフル回転。早く仕事が終わらないかと願い続ける。しかしそのような怒涛の五日間が終わり土日を迎えるとふと思う。あれ、暇だな。
 きっと、この感情を理解してくれる現代人は結構な数に上ると思う。しかし、少し考えてみると、何かがおかしいことに気付く。休みとは本来暇を楽しむべきものだし、頑張って(僕の場合は何度かの転職までして)手に入れた仕事が忙しいのは、喜ぶべき状態なのではないか?僕は、望むべくして手に入れたはずのライフスタイルに、不満を持っていること、つまり、自分の欲望と行動の矛盾を自覚してしまった。
 では、歌詞の内容を逆にしてみたらどうだろうか。「仕事は暇だし休みは暇なし」。もちろん人により考え方の違いはあるだろうが、はっきり言って僕にはこちらの方が魅力的だ。
 以下に記述する2枚目の付箋箇所でも述べるが、現代では仕事も余暇も、全てが消費の対象になってしまったのだ。仕事のやりがい、社会貢献、充実した友達との時間、家族との時間、そのようなパッケージ化された「自分の理想像」を追い求めて消費を繰り返すのが現代社会なのだ。
 きっとこの本を読んだ前後では、僕のライフスタイルはそう変わらないだろう。平日は朝から夜まで暇なし。休みの日は暇で、買い物や映画などのありきたりな行動で時間を潰す。時には友達でも呼んでホームパーティでもするかもしれない。
 この本を読んで変わるのは、意識である。結局この世の中で行われている事の多くは「気晴らし」であると筆者は述べる。その内容が高尚であれ低俗であれ、その中でいかにして愛でるべき何かを見出し、自分なりの楽しみ方ができるのかが重要だ。消費に終わりはないのだから。
 少し話は逸れるが、この本のおかげで、最近落合陽一さんや堀江貴文さんが盛んに説いている「モチベーション」の重要性が理解できた気がする。スマホゲームも、音楽鑑賞も、化学の基礎研究も、ベンチャー企業を起こすのも、突き詰めていけば結局のところ、「退屈」から逃れるための「気晴らし」である。あのパスカルまでもが自分の研究について同じように言及していることが本書では述べられる。
 では、その中から何を選び、どの程度自分の人生を賭けるべきなのか。それを決めるのは「モチベーション」である。僕らは誰かがノーベル賞を取るぐらいに、つまり世界の誰よりも気晴らしに熱中してくれたお陰で、最新の医学治療を享受している。誰かが気晴らしである執筆に全力で取り組んでくれたお陰で、素晴らしい文学に涙する。そしてパスカルが自虐風に語った気晴らしが、人間の複雑な心理構造を簡潔な言葉で解明してくれたから、僕はこの本を読めた。
 結局、人類の社会をより良くしたいと少しでも願う気持ちがあるのなら、時たま襲ってくる「退屈」の声に抗いながら、必死に気晴らしにのめり込むしかないのだ。


■一枚目の付箋

 何かに打ち込みたい。自分の命を賭けてまでも達成したいと思える重大な使命に身を投じたい。なのに、そんな使命はどこにも見あたらない。だから、大義のためなら、命をささげることすら惜しまない者たちがうらやましい。
 だれもそのことを認めはしない。しかし心の底でそのような気持ちに気づいている。
 筆者の知る限りでは、この衝撃的な指摘をまともに受け止めた論者はいない。

 心のどこかで退屈を感じている自分という存在への気付きと、退屈を脱した(ように見える)他人への羨望、が述べられた箇所である。
 何に生涯を捧げるかは人それぞれだ。宗教、仕事、創作、なんでもよい。例え社会的に見れば大した意味のないようなもの、時にはそれが反社会的なものであっても。少なくとも彼らは、人生に退屈してはいない。それが何よりも羨ましいのだ。退屈は、つまり、人生を幸せで有意義にするかどうかを決定づける大きな要因なのである。

 

■二枚目の付箋

 現在では労働までもが消費の対象になっている。どういうことかと言うと、労働はいまや、忙しさという価値を消費する行為になっているというのだ。〔…〕彼らが労働するのは、「生き甲斐」という観念を消費するためなのだ。
 ここからさらに興味深い事態が現れる。労働が消費されるようになると、今度は労働外の時間、つまり余暇も消費の対象対象となる。〔…〕「自分は生産的労働に拘束されてなんかないぞ」。「余暇を自由にできるのだぞ」。そういった証拠を提示することをだれもが催促されている。

  仕事が充実していて忙しい。土日にもやるべき事があって忙しい。仕事のやりがいを追及すること。読書を続けて教養を深めること。新しいカフェやレストランを開拓すること。僕らは年中無休で「人生の充実」を追い求め、他人と競争する。一見するとそれは、前向きな活動のように見えるが、実のところ「退屈」という恐ろしい敵から逃げようとしているだけなのではないだろうか。
 本来、余暇には何もする必要はなく、心身を休めていればよかったはずなのに、今ではたった1日でも外に出ないだけで他人に置いていかれてしまったような。他人より退屈で、みじめな人生を送っているかのように感じてしまう。休みの日にも心休まらない理由が、この箇所を読むことで理解できた気がする。

 

■三枚目の付箋

 私たちの生活がすべて気晴らしであるわけではないだろう。しかし、私たちの生活は気晴らしに満ちている。
 必要だと思ってやっていることさえ、もしかしたら気晴らしかもしれない。額に汗してあくせく働くことすら、絶対にそうではないとどうして言い切れるだろう。
 だれもがその気晴らしを退屈だと感じるわけではない。しかし時折その気晴らしは退屈と絡み合う。

 今や、純粋に100%生きるために、つまり活動を維持するための食糧と、凍え死なないための屋根をただ求めて生きる人間は少数となった。そもそも10,000年前の縄文時代においてさえ、土器に装飾を施すような余裕があったのだ。厳密にその活動は生活に必要か、そうでないかを区別すれば、きっと現代に生きる我々の行動の多くは、気晴らしと見なされることだろう。

 

■四枚目の付箋

 本当に恐ろしいのは、「なんとなく退屈だ」という声を聞き続けることなのである。私たちが日常の仕事の奴隷になるのは、「なんとなく退屈だ」という深い退屈から逃げるためだ。
 〔…〕故に人は仕事の奴隷になり、忙しくすることで、「なんとなく退屈」から逃げ去ろうとするのである。

 なにもする事のない、絶望的な「退屈」と、低いモチベーションで仕事に臨みながら感じる「退屈」。退屈にも種類があり、僕らは何よりも前者の退屈を何よりも恐れる。
 今やインターネットと、そこからの情報を四六時中手元で受け取れるスマートフォンのお陰で、僕らは今や全ての退屈を、後者に変換することに成功したのではないかと思う。ひきこもりという社会問題を見ていると、僕らは個室にこもり、前者の退屈を長い時間引き受けることはできないが、後者の退屈であれば、いくらでも時間を進められる可能性がある、ということを証明しているように思える。


■五枚目の付箋

 人間は習慣を作り出すことを強いられている。そうでなければ生きていけない。だが、習慣を作り出すとそのなかで退屈してしまう。

 人間はなんて我儘なのだろうか。常に新たな刺激を求めるくせに、常時刺激がある環境は避けるようにプログラミングされている。